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要点:瞑想法の極意で開く精神世界の扉 成瀬雅春 著

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モウナ(沈黙)の行者には、他者とのコミュニケーションを一切取らないで、知人や信者が果物や食べ物を持ってきても一切受け取らない、厳格な行者もいる。

森の中で自分で手に入れた自然の果物だけを食べて生活している。

これだけ厳格な修行をしているのは、自分自身の内にこもることからしか真理に至れないことを知っているからである。自分の内から引き出される答えが最高の解答であり、自分の内に神を見出すのが最高の宗教である。それを超える宗教は、どこを探してもない。

そのことを知った上で宗教を持つなら、仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、または新興宗教でも何ら問題にはならない。

神仏を思い、神仏に対して瞑想しても、最終的にはその神仏を通して、自分自身の内にある神性に気づくものであり、真理に至るのも究極の答えを得るのも、すべて自分自身の内部から得られるものである。決して神仏そのものが与えてくれるものではない。

目を閉じて探すということは、自分の内部にあるものを探すことになる。目で見える物質を探すことは瞑想(瞑捜)とは言わない。

あくまでも自分の内部にあって、しかもまだ見つからないものを探す行為が、瞑想(瞑捜)ということになる。

瞑想して静かに考えるという習慣のある人は、普段から精神が安定しているので、精神的な弱さはなくなり、むしろ精神力は強化されることになります。

そして、呼吸もゆっくりと安定するので、血液の循環が良くなり、肉体的な健康も得られます。呼吸が安定すると心が落ち着くので、慌てたり動揺したりする人が少なくなるでしょう。そうすると、間違いを起こすことが減り、人間関係も円滑になります。瞑想で心の中が整理されると判断力が正確になり、物事を見極めるときの洞察力も高まります。

生命力のある人とない人がいるが、どこに差があるのか。

その一つには「認識力」の差があるだろう。自分をどれだけ見つめ、どれだけ知っているかで差が出るのだと思う。

山で遭難したときに、なんとか眠らないようにするのは、眠ってしまうと自分を認識できなくなるからである。起きていれば体温の低下も防げるし、知らないうちに死んでしまうということもない。

また、助けを求めてやたらと動き回るのは、外にばかり目が行って自分の状態を認識できていないからである。自分自身をしっかりと見つめることができれば、冷静にその場で救助を待つことができる。

絶望的な状況に陥って、そこで諦めてしまう人は、自分を認識する力が足りないのである。

諦めるというのは、自分の中にまだ生命力が残っているのに、それを見落としてしまうことである。助かる可能性をほんの1%でも見つけようとする人は認識力が高く、当然ながら生命力もある人ということになる。

生命力とは生きようとする力であり、それは自分の状態をしっかりと見つめる姿勢でもある。自分を見失ってしまう人は運も悪くなるだろうし、生命力も拒絶をしてしまうだろう。

逆に、自分自身のあらゆる状態をしっかりと認識できる人は運も良いだろうし、驚異的な生命力の持ち主となる。

瞑想を行う目的は人によって様々であり、どういう目的で行っても必ず目的に合った効果が得られることは確かである。

最終的には解脱へ向けて瞑想するのだが、人生のあらゆる困難に打ち勝つために瞑想が大いに役立つのだ。瞑想とは、そういう性質を持ったテクニックである。

ヨーガという言葉で次のように明確に語られている:

「感官をこのように堅固に制御すること、このことを人々はヨーガと考え、その時人は心を乱さなくなる。」

プラーティヤーハラ(制感)

常に外に向かってしまう感覚を内面に向けて、内なる神に意識を向けることである。

  1. ダーラナー(集中)
    心をある特定の場に結びつけることがダーラナーである。
  2. ディアーナ(瞑想)
    ダーラナーを持続すると、ごく自然に瞑想状態に移行する。それがディアーナである。
  3. サマーディ(三昧)
    さらにディアーナの状態を持続し続けると、サマーディに入る。

したがって、ダーラナーからディアーナ、サマーディというプロセスは連続的に訪れるものなので、総称してサンヤマ(総制)と呼ばれる。

怪しげな宗教に通ったりする人は、自分の内面に意識を向けることがちゃんとできていないのである。

自分の内面に意識を向けることがしっかりとできれば、人生におけるあらゆる答えが自分自身の内面から得られる。

自分自身の問題や生き方は、誰に相談しても最終的な回答は得られないのであり、最終的にはすべて自分で答えを出すことになるからだ。だからこそ、自分の内面に意識を向けて心を落ち着け、瞑想することで正しい答えを引き出すことができるのである。

人生のあらゆる問題について、大事な答えが引き出せたなら、宗教に頼ったりする必要が生じなくなるのは当然のことである。

スポーツ、武道、美術、演劇、武術など、あらゆる分野で集中力は要求される。しかし、その集中の内容はそれぞれに違う。

単に「集中する」といっても、何のために集中するのかによって、その仕方は全く異なってくるのである。

例えば、競技の特性による違いが挙げられる:

  1. 時間的要素による違い
    マラソンのように2時間数十分を要する競技と、100メートル走のようにスタートして11秒後には勝負がついてしまう競技とでは、当然ながら集中の仕方は違う。
  2. 動作の性質による違い
    アーチェリーや射撃のように、一点に狙いを定めるだけの競技と、テニスやバレーボールのように、どこに飛んでくるか分からないボールを打ち返す競技とでは、やはり集中の仕方が違うのである。
    瞑想の場合は、一点もしくは一つのテーマに集中することから始める。そして、その集中を長時間持続することがポイントになる。

その一点、あるいは一つのテーマというのは、最初はなんでも構わない。

テーマやポイントを決めるのは、瞑想法を着実に上達させるための第一歩である。
まず集中する。そして、その集中しているのを確認する作業が必要になる。つまり、集中しているというのを肉体感覚として実感することで、次に集中状態の移動というテクニックを習得する必要がある。集中ができたら、そこから集中の拡大へとつなげるからである。集中状態の移動ができなくては、拡大はできない。

状態を維持したまま意識を移動するのだが、そこでは冷静な観察力が要求される。

移動したときに集中状態が散乱になっては仕方がない。どのくらい冷静に集中状態を保っていられるかが問題になる。

もう一つ重要なのが、集中状態を解消することである。

集中状態をいかに早く消し去ることができるかは、集中力を高めるためには不可欠である。瞑想を終えてもぼーっとしている状態が当然のように思っているケースがあるが、それは間違いであり、集中力があればさっと平常状態に戻すことができる。1時間程度の普通の瞑想ならば、さっと平常の状態に戻すことができなければ、集中力があるとは言えない。

ハタヨーガを実践している人には、プラティヤーハーラを掴みやすい。

ハタヨーガのアーサナをしっかりと実践している人は、心の作用を内面に向けるというプラティヤーハーラを常に行っているので、改めて練習する必要はない。
プラティヤーハーラは閉眼で行うことが一般的であり、心の作用を内面に向けるという意味でも、目を閉じて行う方がやりやすい。

瞑想をするときの音というのは、邪魔なものではなく、むしろ瞑想の材料として必要なものである。

人間の耳は本来すべての音を聞いているわけではなく、聞こえてくる音の中から必要な音だけを取り出して聞いている。知らず知らずのうちに、聞きたい音を選んでいるのである。

そのことを知った上で、平常は自分の趣味や思考で選択している音を、一切の選択なしに聞き取るように練習する。普通なら聞き逃してしまうような音をしっかりと探し出し、冷静に聞き取るようにする。

そして、どんな音が入ってきても動揺しないようにしなければならない。音の内容によって心が動かされている状態では、良い瞑想を期待することはできない。どんな種類の音でも、淡々と聞き取るようにしなければならない。

積極的に音を聞き取るようにすると、それまでは気がつかなかった音まで聞こえてくるが、耳に入ってくる音はすべて聞き取るようにする。

そしてあらゆる音を聞き取るのに慣れたら、今度はその音を瞑想に役立てるようにする。

それは音が聞こえてきた時に、その音によって自分の気持ちが落ち着くという方向へ結びつけるようにするのである。そうすると、色々な音が聞こえてくればくるほど、気持ちが落ち着く方向へ向かうことになる。そういうつもりで、さらに音を聞き取るようにする。

そうして実際に気持ちが落ち着いてくるのを実感する。たとえどんな音が聞こえてきても、動揺せずに気持ちを落ち着けていられるようになれば、この練習方法はひとまず成功と言える。

プラティヤーハーラとしては、音を取り入れて気持ちを落ち着け、内面に意識を向ければ良いのだが、その音をさらに深い瞑想のために役立てるようにする方法を説明しておこう。

それには、聞こえてくる音のさらに奥から伝わるメッセージを感じ取ることである。

  1. 最初に、どんな音でも心を動かされずに淡々と聞き取るようにする。
  2. それを続けることで、地球上で起きるあらゆる音を聞き取ることにつながる。
  3. さらに、宇宙で起きるあらゆる音を聞き取るところへとつながっていく。

宇宙で起きるあらゆる音を聞き取ることができるようになれば、宇宙のすべてを知ることになり、それはそのまま解脱へとつながることになる。聴覚だけでなく、人間の五感にはいくらでも広げられる可能性が秘められている。

常識的な枠にとらわれていると、いつまでたっても解脱にも純粋状態にもつながらない。

枠を作らず、どこまでも可能性を広げていくことで、人間の能力は限りなく拡大することになる。

音を聞くというだけでも、枠さえ作らなければ、悟りでも解脱でも望むものはすべて得られる可能性があるのだ。それにはまず一歩として、耳に入ってくる音を淡々と聞き取ることから始めなければならない。

瞑想は理想的には白紙の状態で行うものであり、当然、日常的な常識にとらわれずに行うべきである。しかし、現実にはどうしても常識にとらわれてしまう。

そこで何が問題なのかというと、常識的なことを考えたり意識したり思ったりすること自体ではなく、それにとらわれることや支配されることが問題なのである。逆の言い方をすれば、常識的なことを考えたり意識したり思ったりしても、それにとらわれ、支配されさえしなければ問題はない。

とらわれない、支配されないというのはどういうことかというと、冷静に観察するということである。

どのような常識が働こうと、それを淡々と見つめる姿勢があれば、瞑想の妨げにはならないし、むしろ役立つことになる。

動き出したい衝動が起き、それを抑えようとして雑念が湧き起こる。

状況が許せば、その衝動を抑えずに動いてみて、なるべく客観的に観察するのが望ましい。

観察をすることによって、雑念の入る余地がなくなる。その観察を続けていると、体の動きが徐々に減ってくる。もし減ってこないようなら、それは観察が足りないということになる。

そうして最終的には、瞑想中に動き出すという症状が起きることがなくなる。

逆に、瞑想状態で体を動かそうという試みをしてみるといい。本当に瞑想の深い状態で体を動かせれば、その動きが洗練された芸術的な動きになるはずである。

瞑想が途切れたり散漫になったりすると、動きが不自然になるのですぐにわかってしまう。そういう意味では、瞑想の深さが外から測れるため、良い指標になる。

一点に集中している意識と別に雑念が湧き出してしまうというのは、瞑想を深めるために利用できる現象である。

つまり、集中している意識と別の意識が存在していて、それが雑念だという解釈をするから悩むのだろう。しかし、それは客観的に自分を見つめる存在として認めれば、雑念ではなくなり、むしろ瞑想の役に立つのである。

どんな雑念が浮かんでも、それを的確に見出し、冷静に観察することができれば、瞑想は確実に深まる。

瞑想していると、ひとりでに体が動き出し、踊ってしまったり、仏像のような格好をしてしまったりすることもある。

これも非常に多いケースです。何かに取り憑かれているのではないかと心配する方が多いのですが、そういうことは考えない方がよいでしょう。その人の意識が「つきもの」といったものに向かってしまうと、どうしてもそちらの方向に引っ張られてしまうことになります。

仏像のような格好をしてしまうというのは、本来「ムドラー」といって、内面の状態が身体表現として現れたものです。したがって、そのような格好をするのは、それだけ内在する意識が表面化したということになります。ある段階の瞑想状態に入っていたと解釈すればよいのです。

瞑想中、非常に快適でいつまでも続けられそうという意識が出てきたときは、かえってやめたほうが良いのでしょうか? 気持ちよさに紛れそうな気がするので。

これは良い質問である。気持ちよさに紛れそうな気がすると気づいたことはとても重要だ。瞑想をしていて快適だと、その快適さに浸ってしまうのは一般的なのだ。そこで「こういう状態が生じている」ということに気づくのは、鋭い観察力を備えている証拠である。

そこまで気づいたら瞑想をやめる必要はなく、気持ちよさに紛れてしまうかどうかの観察を続ければよい。そして、観察はそれだけでなく、自分の瞑想のあらゆる状態を見極めるつもりで行えば、さらに充実することになります。

瞑想のキーワード:

  1. 瞑目する
  2. 内面に意識を向ける
  3. 音を聞く

この3つは、確実に瞑想を深めるために重要なステップである。4. 一点に集中する

心臓のあたりに集中したことによる、何かしらの実感をつかんでほしい。

2から3分集中したら移動する。

2から3分というのは一般的な目安と考えればいい。しっかりとした集中状態が作れれば、1分以内でもいいだろうし、逆に5分以上かけてもいい。集中する場所を移動する際にも、移動のルートをしっかり観測する。最初に心臓に集中したときと、最後にまた心臓に集中したときの違いもしっかり捉えて。

終わりまで他のところや他のことに意識がいかないで行えていれば、集中ができている。ちゃんと集中ができているかどうかが、最初のチェックポイントである。

それができていたら、その間の移動状態の細かな観察ができていたかどうかをチェックする。

呼吸の行方を追うという練習では、伸ばした先端に注意を向けるのがコツである。

例えば、息を吐き終えるまでが10秒だとしたら、最初の1秒でどこまで伸ばせるかが一つのチェックポイントになる。自動車の性能で言えば、スタートから400メートルの間に時速何キロまで加速できるかが重要なのと同じである。

最初の1秒で、自分から意識の先端(ライン)をしっかりと伸ばす。それがうまくいけば、その後は加速がついてどんどん伸びることになる。
そして、吸いに入る時には、たとえ宇宙の果てまで先端が伸びていても、先端から自分までのラインを一瞬にして戻すようにする。その戻った反動を利用して、吸いの最初の1秒のラインを伸ばす。

吸いの方は体内の圧力の関係で、吐くときより難しいだろう。しかも直線のラインで伸ばしていくには、かなりの瞑想能力が要求される。

最初のうちは吸うときに無理に伸ばそうとせず、吐くときの距離を伸ばすようにすればいい。

意識を拡大するときには、壁であれビルであれ、何一つ障害になるものはない。

しかし、初心者は常識的な枠がなかなか外せない。吐く息を伸ばそうと思っても、部屋の中なら壁にぶつかって、そこから先へ伸ばせない。

そこで最初のうちは、できるならそういう障害を取り除いて練習するといい。

  1. 部屋の窓を開ける
  2. 外の方を向いて練習する
  3. 屋外で練習する

などの工夫をしてみよう。

呼吸を行うときにプラーナを取り入れるという意識を持つようにして、それを肉体感覚として掴めるように練習する。

肉体感覚として掴めるというのは、プラーナが入り込むことで、体の内部から生命力に満ちた状態に変わってくるのを感じることである。

プラーナを取り入れるというのは、「霞を食べる」という言葉と通じるところがある。実際にプラーナを取り入れることができるようになると、食物から取り入れるエネルギーの量が非常に少なくて済み、最終的には全く飲まず食わずで生きられるようになる。まず、楽な座り方で呼吸を整えます。最初は目を閉じて行ってください。

呼吸が落ち着いたら、息を吸うときに「吸う息とともにプラーナが入ってくる」というイメージを持ちます。そして息を吐くとき、その体内に入ってきたプラーナを「体の隅々まで巡らす」というイメージを持ちます。ゆっくりとした呼吸のペースに合わせて、そのイメージの繰り返しをしばらく続けてください。

吸う息とともにプラーナが入ってくるのを、漠然と見つめるようにするといいでしょう。あまり「プラーナを取り入れよう」という気持ちが強すぎると、かえって逆効果になるので注意が必要です。

「体の隅々まで巡らす」というのも、いきなり行うのではありません。

  1. 最初は、入ってきたプラーナが体のどのあたりまで巡っているのかな、という姿勢で観察する。
  2. 慣れてくれば、隅々まで巡らすというよりは、巡っている様子が実感としてつかめるようになる。

そうすれば、明らかにプラーナが入ってきて、生命力に満ちあふれてくるのが分かるようになります。

意識の拡大は簡単にはつかめないので、いろいろな練習法を試し、いろいろな角度から意識を捉えることで、徐々につかんでいくようにするのが望ましいでしょう。

そこで「集中」から「意識の拡大」へとつなげるには、集中したという意識の存在をつかまえるのがキーポイントになります。

一旦集中して、そこに集中された意識状態が存在していることを確かめることが重要です。

  1. 喉に集中する
    (a) 喉の開閉がうまくできる人は、実際に喉を開閉してみると、集中のポイントがはっきりします。
    (b) それがつかめない人は、低音で声を出して震えるポイントだと思えばいいでしょう。

これは「霊的センター」と呼ばれている「ヴィシュッダ・チャクラ」でもいいのですが、知識よりも実感としてつかめる方が重要です。

その集中状態を上に移動して、頭頂部の皮膚の裏側まで持ってくる。

頭頂部は「ブラフマ・ランドラ」と言って、精妙なエネルギーが出入りするところである。頭頂部の皮膚の内側に触れるところまで集中状態を持ってきたら、そこからちょっと押し出すようにして外へ出す。

外へ出したら、そのまま集中状態を、5秒ほどかけて30cmくらい上の位置まで移動する。集中状態があるのをしっかりと確認した後に、今度は2cmずつという具合に徐々に体に近づけていき、そして頭頂部に触れる位置まで持ってくる。

そこからその集中状態をずっと体の中へ入れ、最初に集中した喉の位置まで移動させる。

外から中へ、中から外へを繰り返し、特に頭頂部の皮膚をすり抜けるときの感覚を、しっかりと伝えていきます。

今度は例えば、顔の前1メートルのところ、頭の上30センチ、背中の後ろ、あるいは腰でも、集中状態の移動先をどこに決めても構いません。体の中から外へ移動するときに、肉体の領域を通過する際の感覚に注意を向けるようにします。午後から10分ほど練習してみて、その間のいろいろな体験をどの程度細かく観察できただろうか。なぜこんな練習法を開発したかというと、空中浮遊の副産物なのである。私が空中浮遊を行うときには、意識を空間の一点に移動していくというテクニックを使う。

最初はイメージで行うが、そこで足踏みしていてはダメである。イメージでも想像でもいいのだが、その中でどんな実感があるかを掴み取る姿勢が必要だ。

肉体の内から外、外から内へ移動するとき、境界を通過するときにわずかに抵抗がある。その抵抗は同じものではない。

中から外へ移動するときには後ろへ引っ張られるような抵抗があり、外から中へ移動するときには進行方向に圧力がかかるような抵抗がある。その抵抗感も、肉体のどの部分から出入りするかによって違いがある。

そして、意識の集中状態が肉体内にあるときには、集中状態の全体に圧力が感じられ、肉体の外にあるときには、その圧力が解放されて感じられなくなる。意識を集中するときには圧力が感じられるため、肉体内の方が感覚を掴みやすい。その圧力のおかげで意識が散乱するのを防ぐことができ、集中状態の感触が掴めるからである。

だからこそ、肉体の外で意識を集中させるのは難しいのだが、それがしっかりとできるようになれば、意識の拡大へと繋げるのが容易になる。肉体の外では意識が散乱しやすい反面、圧力から解放されている分だけ、意識を拡大しやすくなるのである。

しかし、油断すると意識は拡大されるのではなく、単に散らばってしまう恐れがある。それを防ぐには、以下の3つの練習を重ねる必要がある:

  1. 集中する
  2. 集中状態の移動をする
  3. 集中状態を解消する

そしてこの練習の最後に、肉体の外から肉体内へ移動して集中したという意識の存在をしっかりと確認できたら、その集中状態をなるべく早く解消するようにする。できれば、一瞬にして解消できれば理想的である。

そこまでの練習を積み重ねてしっかりと身につけられれば、一平面の拡大でも立体の拡大でも可能になるので、意識の拡大法は成功したと言えるだろう。

ラーマクリシュナ

仏教、キリスト教、イスラム教という一つの宗教の枠を遥かに超えた存在でありながら、世界的に有名になるのは非常に珍しいケースである。
しばらく役僧の仕事をしているうちに、ラーマクリシュナは一日中ただ呆然として変わり、女神カーリーのそばに座り続けるようになりました。
私は一つの宗教に入信するつもりは毛頭ないし、師と仰ぐ人物に出会えるという期待感も全くしない。私は生涯一修行者として終えるだろうと思う。

だからこそ、宗教の壁を越えて献身体験を重ねたラーマクリシュナの存在は、師を持たず、たった一人我が道を行くという私にとっては、誇ってよい強い支えとなった。

想念を観察しようという姿勢を根気よく続けていると、観察しきれなくなった時に気づくようになる。

少し間があってから気づくのと、「今、観察が途切れたな」と気づくの差は大きい。
想念の観察の途切れは、ほんの一瞬、亀裂のような感覚で訪れる。

つまり、想念の観察を続けていると、一瞬それが途切れそうになる。その瞬間に、自分の意識に鋭利な刃物で切り裂いたような亀裂が走るのだ。

それが、想念の観察が途切れる瞬間なのである。その途切れそうになる瞬間がわかると、その人のほんの少しの亀裂と感じられるものの、想念の観察は変わらずに続けられる。そこには深みがある。それは、瞑想の安定した状態を持続できるということになる。

最初は次から次へと想念が入れ替わり出てくるのだが、想念の観察がしっかりとできてくると、入れ替わりが少なくなる。そのうちに一つのテーマと、それに関する事柄だけが頭の中を支配するようになる。

私の瞑想の特徴は、瞑想時と平常時との切り替えが早いことである。

駒澤大学の実験でも、その特徴が現れた。私の場合、平常時にはアルファ波がほとんど計測されない。これは人によって、平常時からアルファ波が出ている人とそうでない人がいるが、私はアルファ波が出ていないタイプに属しているようだ。
5分間の平常時の計測が済み、瞑想に入るように指示が来たところからいきなりアルファ波が現れた。20分間の瞑想中は変わらず、終わりの合図が来た途端にアルファ波が消えてしまい、瞑想前と全く同じ脳波になってしまった。

それと同時に、心拍と呼吸数も、瞑想に入った時と終わった時にはっきりと変化している。心拍数は瞑想前が71で、瞑想中は62になり、瞑想を終えた時に71に戻った。呼吸の方は、瞑想前が1分間に16.3回で、瞑想に入った時に6.5回になり、瞑想を終えた時には16.7回となった。

瞑想に入ろうとするときに私が最初にコントロールするのは呼吸である。まず呼吸を落ち着けることから入る。

呼吸を落ち着けると、座り方も自然に安定する。また、体全体がリラックスして無駄な力が抜け、精神的にも楽になる。

何呼吸ぐらいで落ち着くかというと、私の場合はほぼ一呼吸半である。

さあ瞑想に入ろうとしたときに、軽く息を吐いてから、次に少し多めに吸い込み、ゆっくりと息を吐く。大抵の場合は、これで瞑想状態に入る。それは水泳競技のスタートに例えることができる。

「用意」で体を縮めてスタートの合図とともに体を伸ばして空中にジャンプする。そのジャンプした勢いを利用して水中を前進してから、水上に体を出して泳ぎ出すということになる。

具体的には次のようなプロセスだ:

  1. 軽く息を吐いて「用意」で体を縮める)
  2. 次に少し多めに吸い込む(スタートの合図とともに体を伸ばして空中にジャンプする)
  3. ゆっくりと息を吐いて(ジャンプした勢いを利用して水中を前進する)
  4. そこから瞑想に入る(つまり、水上に体を出して泳ぎ出す)
    ということになるのである。
    なぜ「一呼吸半」で瞑想状態に入れるのかというと、観察能力の量が多いからである。

一呼吸半の中でも最後の「半呼吸」が決め手になる。つまり、少し多めに吸い込んだ後の、ゆっくりと息を吐く部分が重要なので、この間に一気に瞑想状態に持っていくのである。

具体的なプロセスは以下の通りである:

  1. 大体10秒から15秒ぐらいの間に息を吐ききる。
  2. その1秒ごとに、数十の変化を観察する。
  3. 自分の肉体や精神も含め、内部で起きる無数の変化を網羅し、的確に掴み取る。

10秒後には現在の自分の状態のすべてを把握してしまうことで、肉体や執着からほとんど解放され、理想的な瞑想状態に入ることができるのである。

どんな音が聞こえてきても、すべて自分の瞑想に役立つと考えて聞き取るようにする。

例えば、救急車の「ピーポー」という音が聞こえてきたとする。通常は邪魔な音だが、もし家族の一人が危篤状態で、慌てて救急車を呼んだ場面だったとしたらどうだろうか。その場合、サイレンの音が聞こえてきた瞬間、イライラするどころか「助けが来た」と、ほっと安心することになる。気持ちが落ち着くはずである。

そう考えれば、どんな音が聞こえても何一つ心を乱されることなく、瞑想を続けることができる。

瞑想中に聞こえる音というのは、どういう気持ちで聞き取るかで、全く違った内容になってしまう。たとえどんな音が聞こえてきても、すべて自分にとって役に立つ音だという認識で聞き取ってしまえば、どんどん理想的な瞑想状態に入り込むことができるのである。

そしてその音が自分の体の精妙な部分に刺激を与えて、瞑想の深みへと引き込まれるという解釈をすれば、たとえどんな音が聞こえても、瞑想は良い状態に向かうことになる。

リシュケシュで神的なものが私の右手を掴み、引き上げた。

冷静になった私は、私を引き上げたものに向かって「あなたは誰ですか」と聞いてみた。

その答えは「私はイエスであり、ブッダであり、クリシュナであり、マホメットである」という、様々な宗教の神の名前だったのである。私はその時、これは本物だなと確信した。

私の場合、一つの宗教を信じるというのではなく、すべてを自分の中に求め、神や仏、宗教などがあるとすれば自分自身の中にあると思っているので、一人の神や仏が現れるのは変だなと考えた。まさにブラフマン(人格を持たない宇宙的な創造主)であると思った。→ 自分の脳が作り出した幻覚じゃないかとも言えるが、自分の知識があるものを意識できる、意識することによって知覚できるということかも。

意識体分離現象が起きるときには、最初のうちはその現象を引き起こすべき何らかのエネルギーが必要になる。そこで、その人にとって象徴的な現象が起きるのである。

私の場合には、ヨーガの修行を続けているために「右手を頭上に上げるとシヴァ神と手がつながる」という意識を常々持っていた。実際に右手を頭上に上げると、それが実感として伝わってくるという前提があるので、右手をつかまれて引き上げられたのである。

意識体分離現象には色々な種類がある。視覚分離もその一つだ。

超能力の一種に遠隔視(リモートビューイング)や千里眼、クレアボヤンスというものがあるが、そのうちのいくつかの例は視覚分離だと考えられる。また、テレパシーや幻聴と言われるものの中には、聴覚分離のケースが関係している。

瞑想していて音の聞こえ方が変わってきたら、聴覚が肉体から分離し始めたと思っていいだろう。聞こえるはずのない音が聞こえてきたとしたら、聴覚が肉体の束縛から自由な状態になったと考えてよい。一般的に幽体離脱だと思われているのは、空中から自分や周囲の景色などを見ることが多いので、視覚分離の場合が多い。
五感のうち一つだけが肉体から分離することもあれば、視覚と触覚、聴覚と味覚というように、二つの感覚が分離することもある。

分離した感覚がどこへ向かい、どこでその感覚を認識するのかという点も、私は観察した。

そうすると、一つは自分の潜在意識層に向かうケースと、もう一つは外界の空間へ向かうケースがある。例えば、瞑想していて水中にいるような感覚を味わう場合に、過去に実際に水中に入った体験が潜在意識層に蓄積されていて、意識体がその潜在意識層に到達したことでリアルな感覚を味わうケース。

もう一つは、分離した意識体が外の空間に向かい、川や海などの水中に実際に入るというケース。

ゴームクでの瞑想は、呼吸のコントロールで瞑想に入るというようなテクニックは全く必要ない。

ただ座れば、それで深い瞑想状態が訪れる。何一つ不安のない自由な時間が即座に訪れる。これほど純粋な瞑想状態に即座に入れるというのは、日本では経験したことがない。

人間としての自分もなければ、動物的な自分もない。植物的な自分もなければ、鉱物的な純粋さの自分もない。強いて言えば、大気と同化した自分がわずかに感じられるだけである。

例えようのない、純粋な瞑想状態である。

定められたサドゥの一日は、以下のように割り振られる。

  1. 8時間:マントラを唱えるなどの祈りの時間
  2. 5時間:睡眠と休息
  3. 2時間:沐浴や身繕い
  4. 9時間:他の聖者との宗教的なディスカッションや、信者との対話

これらを合わせた合計24時間を、修行と対話に費やすのである。

タイマーに限らず、シンクロエナジャイザーやサマーディタンクなどの瞑想用の器具や道具の助けを借りると、深い瞑想状態に入ったという錯覚を起こす。

そうすると、純粋に瞑想をするときに、かえって障害になる場合がある。自分で努力をしないで幻想的な体験をしたり、感動的な刺激を受けたりしていると、純粋に瞑想したときに感動も刺激も起こらなくて、がっかりすることになる。例えば、ドミノ倒しの制作に参加するのと、その番組を見るだけの違いのように考えられます。
瞑想体験の場合には、その体験も素晴らしいですが、そこまでのプロセスでも様々な感情が得られます。そして、その積み重ねられた瞑想体験は、筆舌に尽くしがたい感動を呼び起こします。

私の言う人類を救うというのは、仏教徒だけを救うのではなく、全世界の全人類を死ぬまで責任を持って救済するということを言っているのである。

ブッダやキリストといえどもそこまでのことを実現していないのに、他の教祖でそれを実現したという話を聞いたこともないし、今後も実現できるとは思えない。そういう教祖の言動を信じて入信した信者は、結果的には教祖に裏切られることになる。
ある種の悟りを得ると、人類救済などの使命感が生じ、教団を作って布教活動をするというのが、いわゆる教祖のパターンである。

だが実は、瞑想を深める修行をさらに続けていけば、今言ったようにそういう使命感は間違いであることに気づくのである。どんなサマージー体験をしても、それが最高の悟りだというような傲慢さを持ってしまうのが教祖であり、逆にそういう傲慢さを一切持たないのが、純粋なヨーガ行者やサドゥーである。

人類の精神の荒廃を大気汚染に例えてみよう。

大気汚染を食い止めるには、地球上に緑地帯を増やせばよいということがわかるはずだ。

しかし、ある種の悟りを得たと思った教祖は、汚染された空気を吸わないように巨大な空気清浄機を備えた建物を作り、たくさんの信者をその建物内で生活させようとする。当然、信者を集めるための布教活動に勢力を注ぐことになる。

そういう建物を増やせば、建物内の空気は浄化されるだろうが、地球上の大気汚染は食い止めるどころか、さらに汚染されることになる。
一方でヨーガ行者は、彼自身が汚染を食い止める樹木そのものになってしまうということだ。

そういうヨーガ行者が増えることで、その樹木の数が100本になり、1000本になり、1000万本になるという具合に緑地が増え、最終的には大気汚染が食い止められる結果になる。
ヨーガ行者の考える世界平和は、人類の平和だけではない。

真理や道を歩むヨーガ行者は、人類のみが救済されることよりも、地球上のあらゆる生物とバランスよく生きられるようにと望む。

こうしてみると、一歩一歩着実に修行を進めていく瞑想法を実践している宗教や団体というのは、私には見えてこない。

神仏などの何かを信じることが中心だったり、黙って座り続けるとか、何も考えないというようなのは、瞑想法とは言い難い。それぞれ宗教としては素晴らしいのだと思うし、信仰心を持つということも大切なことだ。

ただ、そのことと、確実な瞑想法を提供することとは違う。

我識瞑想行法

開眼認識

まずは自分の肉体を視覚で認識することから始めよう。

  1. 目を開けて座り、自分の体のどの部分が見えているかを確認する。実は見えていない部分があると知ろう。
  2. 次に首を捻って、さらにどの部分まで見えるかを確認する。それでも見えない部分は当然ある。
  3. その確認ができたら、それ以外、つまり見えていない部分に意識を向けてみて、どの程度認識できるかを確認する。見えているギリギリのところから先に意識を向けて、実感できるかどうか。
  4. 対象についての確認ができたら、次に衣服、または対象を通して体内に意識を向けてみて、体内のどの部分をどの程度実感できるかを確認する。

触覚認識

次に自分の肉体を触覚で認識してみよう。

  1. あぐらで座り、目を閉じて、足の付け根から足首までを手のひらで撫でて、足の形状を確認する。次に手のひらを膝の上に置き、今撫でた感覚を思い出し、足の形状を認識してみよう。
  2. 同じように右手のひらで左腕を撫でて、左手のひらで右腕を撫でて、腕の形状を確認する。その後、手のひらを膝の上に置き、今撫でた感覚を思い出し、腕の形状を認識してみる。
  3. 同じ要領で、胴体、首、頭などの身体部分も試す。
  4. 今度は舌を使って口腔内の確認をする。その後、今の感覚を思い出し、口腔内の形状を確認してみよう。

部分認識

視覚や触覚に頼らないで体の部分を認識できるかを試してみよう。

  1. あぐらで座り、目を閉じて膝の上に手のひらを置く。
  2. 膝と手のひらは温かさがあり、それによって存在感がつかめるかどうかを確認する。ここまでは触覚という手がかりがある。
  3. 次に、そのまま「へそ、耳、髪の毛、足の爪」という順序で意識を向けて、その部分を実感できるかどうかを確認する。認識しやすい部分と、逆に認識しにくい部分があるのがつかめるだろう。
  4. 最後に、体内の部分で試してみよう。心臓、胃、脳などに意識を向けて、どの部分をどの程度実感できるだろうか。

視覚外認識

  1. 目を閉じて立って、誰かに足の薬指を触られたとしたら、それが薬指なのか中指なのかの判断がつかない人が多い。視覚以外で自分の体を認識するというのは、案外難しいものである。
  2. 閉眼のまま右手を開き、左手を握って、その状態を確認できるかどうか試してみる。
  3. 自分が「右手を開いていて左手を握っている」ことをすでに知っているので、認識できるような錯覚を起こしてしまうが、その知識を取り除いて考えたとき、果たして正確な判断がつくだろうか。

鼓動認識

自分を認識する手段はあるようで案外少ない。その中で、かなりしっかりとした手応えがあるのが、心臓の鼓動を確認する方法である。

  1. あぐらをかいて座り、目を閉じて右手のひらを胸に当て、心臓の鼓動を確認する。
  2. その手を離して、さらに心臓の鼓動を確認する。3. 体の内側から伝わってくる鼓動を、しっかりと感じ取るようにする。
  3. もしはっきりしなければ、何度か手を当てて再確認してもよい。
  4. 鼓動がつかめたら、その鼓動の影響が全身に行き渡っている様子までをも感じ取るようにする。

天井から見下ろす:

  1. 前方の視界に2、3人が入り、その人たちと正面から向き合わないようにして座る。
  2. そのうちの1人の、天井から頭頂部までの垂直ラインをしっかりと描き出す。
  3. そのラインがはっきりしたら、自分の意識を天井のラインポイントに持っていき、そこから真下を見下ろす。
  4. 座っている人を天井から見下ろすことができたら、天井のポイントを自分の頭上に移動し、そこから自分自身を天井から見下ろす。

これができれば、我識瞑想に成功したことになる。

系観瞑想行法。

直線認識(直線テクニック)から練習するといい

  1. まずは好みの人のポスターなどを見やすい位置に置くか、目の前の人を対象にする。
  2. 相手またはポスターの目と目の間をポイントにして、直線のラインを描く。自分のスタートポイントを相手と同じ目と目の間にすると、一本の糸のような直線ができるはずだ。もう一つは、自分の両目をスタートポイントにすると、細長い三角形か円錐形でラインを描くことができるだろう。
  3. 対象をしっかりと見据えて、直線または三角形か円錐形のラインを描くようにしてから、目を閉じて同じようにラインを描くようにする。これを何度か繰り返して、目を開けていても閉じていても、はっきりとラインを描けるように練習する。
    (a) 三角形か円錐形でも、対象ポイントが一点であれば「直線テクニック」と考えていい。
  4. この形式瞑想ができたら、そのまま系列瞑想の練習に入るとよい。
    (a) 人が対象の場合には、その人を通り越してから振り向き、後頭部を認識できれば良い。
    (b) 壁に貼ったポスターであれば、その壁を通り越えてから振り向き、壁の裏側またはポスターの裏側を認識できれば良い。対象が人の場合には「第一系観瞑想」の直線テクニックとなり、壁に貼ったポスターの場合には「第二系観瞑想」の直線テクニックとなる。

面の認識

  1. 第二系観瞑想の「我とテント」で 視野の範囲全部ではなく、目の前のポスター1枚に限定して、そのスペースと自分の間にラインを描くようにする。
  2. 自分とその面との間のラインの内部をしっかりと認識する
    系内の境界は面だが、そこから自分までラインを描くと立体になる。その空間に描いたラインがしっかりと認識できればよい。
  3. 系越(けいえつ)をして振り返る
    ポスターの大きさの点と面が認識できればよい。
  4. 完成
    その面を通して、点(内)に座っている自分までを認識できれば、第二系観瞑想の視野テクニックの完成となる。

音で認識

  1. テレビやステレオなど音の出る機器を適当な距離に置いて音を出す。しばらくその機器を見ながら音を聞き、その後目を閉じる。
  2. 目を閉じたら、音を頼りに音源を対象として、第一系観瞑想の視野テクニックを実践する。
  3. 冷蔵庫にくっつけてある磁石式のキッチンタイマーの「ピッ、ピッ、ピッ」という音を手がかりにして、第二系観瞑想の視野テクニックを実践する。
  4. キッチンタイマーの音がしたら、すかさず第二系観瞑想の視野テクニックで系越をして、冷蔵庫の裏側からキッチンタイマーと自分を認識する系観瞑想をする。
  5. 聞こえてくる音の種類から、その音を出しているものをイメージし、座っている自分との関係を把握する。
    (a) 例えばドアの開閉音が聞こえたら、その音を手がかりとして「部屋」という系に含まれている自分を認識する。
  6. 例えば飛行機の飛ぶ音が聞こえたら、すかさず「我と飛行機」という練習をする。
    (a) 部屋の中で目を閉じて飛行機の音を聞いており、目を開けても見えない環境とするならば「第三系観瞑想」になる。
    (b) これが外に出て飛行機を確認しながらならば「第一系観瞑想」になる。
  7. 波の音を聞きながら瞑想する。そして現れた設定、どこに自分がいて対象が何か、に従って瞑想を続ける。

ポイント呼吸

  1. かぐらで座り、目を閉じて膝の上で手のひらを開く。
  2. 目を閉じている目の前のスペースをしっかりと観察し、その中でちょうど目の前のあたりにある特徴的なポイントを一つ決める。
  3. そのポイントへ向けて息を吐き、ポイントから息を吸う。 対象がポイントなので、当然「直線テクニック」となる。ポイントの奥も認識できれば「第一系観瞑想」の無軸直線テクニックとなり、認識できなければ「第二系観瞑想」の直線テクニックとなる。

相手と向き合っての練習:

  1. 相手と向き合って座り、その人を対象として「第一系観瞑想」の直線テクニックを実践する。
  2. 次に、相手の人に逆を向いてもらい、第一系観瞑想の直線テクニックを実践する。相手の背中を通した向こう側に自分自身の存在を認識できれば成功である。
  3. 3人の場合は、右の人を正面に見るようにする。
  4. 形を思い浮かべやすい臓器(心臓など)を対象として、系観瞑想をする。しばらく実践したら向きを変えて、左の人を正面に見るようにして実践する。次に、同じ要領で相手の骨格を対象として実践してみる。
  5. 終了後、3人で何の臓器を対象にしたかや、左右での違いなどを話し合う。これは臓器や骨を認識する手段があるので「第三系観瞑想」の前方向テクニックということになる。相手の人は第一系観瞑想の対象だが、臓器や骨は直接見ることができないので、第三系観瞑想ということになる。

系観瞑想も含めて、いろいろな瞑想の練習法を紹介したが、それを全部行う必要はない。

いろいろ試してみて、その中で自分に合った瞑想法を見つけ出してほしい。

系観瞑想が合わなければ、他の瞑想法を練習すればいい。ただし、曖昧さのない実感として掴める瞑想法を練習すべきである。

ジーヴァン・ムクタ(生前解脱者)のレベルになると、真理について語らなくなるので、そこからモウナ(沈黙)という修行が始まる。

モウナというのは一切喋らないという修行なのだが、本来は喋らない修行をするのではなく、修行の結果として何も喋ることがなくなり、沈黙してしまうのである。何度もの生まれ変わりを経て、人間としてのあらゆる経験をすると、最終的に何も語ることがなくなってしまう。

言葉という表現方法は必要なくなり、自分の存在を主張する必要もなくなり、淡々と呼吸し、時が来れば死を迎え、宇宙のエネルギーの一部と化してしまう。

解脱に成功するための例えは、100メートル競走のように考えるべきです。

100メートル競走の場合には、ゴールにたどり着いた途端に止まるわけではなく、ゴール地点を走り抜けることになります。ゴールは目標としてあるのですが、その地点に到達したという宣言をするのは、100メートル競走でも解脱でも滑稽なことになります。

私は「100メートル地点に到達した」と選手が言わないように、本当に解脱したとしたら、「私は解脱した」とは絶対に言いません。

100メートル地点でピタッと止まってしまう選手はいないし、全力で駆け抜けてきて100メートル地点で止まるのは至難の業である。もし100メートル地点で止まるとしたら、その手前でスピードを落とさなければならないので、その選手は確実に最下位になってしまうだろう。

100メートル地点に到達するまでのすべての瞬間が大切なように、解脱に至るまでの日々の生活をどう生きるかが、最も重要なのである。

エベレスト登頂の場合には、日々の生活がどうであれ、山頂に到達することが重要であり、それを成し遂げたことで英雄になれる。

解脱をそれと同じように考えていると、「私は解脱した」と宣言するような、おかしなことを平気で言ってしまうことになる。

スタートから10メートルまでの体の角度や足の踏み出し方などを徹底的に研究し、練習を積み重ねなければ、200メートル競走の一流選手にはなれないだろう。

単に100メートル走るだけなら、普通に走れる人なら誰にでもできる。同様に「私は解脱した」と宣言するだけなら、誰にでもできる。

しかし「私は解脱した」と宣言したとしたら、実際には解脱できていないことになる。解脱したいという欲望や、解脱したと宣言するような自己顕示欲があるうちは、解脱は成就できないからである。学問や知識のある人は、その知識を捨ててからでなければ解脱は成就できない。

解脱願望がある人は、その解脱願望が消えなければ解脱は成就できない。

解脱に到達するというつもりで修行している人は、その到達するという意識が邪魔をして解脱は成就できない。

オリンピックに出場するには日々の練習が大切なのと同様に、解脱に至るというのも、それまでのすべての生活が重要なのである。たとえ解脱に至る直前のところまで来ても、解脱地点に到達する、つまりその地点で止まってしまうのであれば、解脱は成就できない。100メートル地点で止まってしまっては、選手としては競技に立てないようなものである。その目標地点から先へ駆け抜けるだけのパワーがなければ、残念ながら解脱は成就できない。

パワーというのは、日々の修行努力で培われることになる。

武芸というのは感性だ。

人間がこうするという行動の反対なのだ。力に対して力で打ち破るのではなく、力なくして力を打ち破る。つまり感性を使って相手の意表を突いているのだ。感性が鋭くなればなるほど、武芸の技量はどんどん向上する。

いかに自分の感性に対して体が動けるかという体作りをする。

自分の場合は事業をやっているので、全脳細胞の覚醒というよりも「運」ということを大事にする。それからエネルギー。

文化を持って世界を制覇しようと生きている自分。この運を引き出すには、自分の魂を覆っているものを開く「天の岩戸開き」をする。つまり、神話の「天の岩戸開き」ではなく、個人の「天の開き」「岩戸開き」をするということ。それが自分の中で始まりつつある。ただし、この岩戸が開くということは、相当に危険なことでもある。だから、それを受け入れることのできる覚悟が必要がある。成瀬さんは「ブラフマー結節」という言葉を使ってそれを表現しました。
つまり、それは結節がほどけるということであり、封印が外れ出したということ。
言い換えれば「天の岩戸開き」が始まったということなのです。

どの国にいても、その中で自分が自由になればいい。自分の理想形を探していけばいいのです。

「遊び」という表現の中にも、角川さんが言っている遊びというのは、とても深い意味があります。単純な遊びや娯楽ではなく、ゴルフや麻雀といった種類のものでもありません。

ただ遊ぶということではなく、人生をどれくらい楽しめるかということ。その魂を表現するには、レベルの高いものが要求されるのです。

楽しいだとか、娯楽的な遊びというだけではなく、より本質を極めるためには、体を鍛錬する厳格な修行も必要。

全脳細胞を開いたのは宇宙の存在だけれど、肉体を開いたのはそれとは別の「神」という存在である。

宇宙の存在と神は別のレベルにある。宇宙の存在は、より人間に近い神という存在に人間を託したのだ。

日本の「剣術」というのは、神から直接教わるものとされてきた。それについていけるように、体を反復練習などで鍛え上げるわけだ。

本当は快感があるから苦行をする。千日回峰行にしても滝行にしても、やったことによって快感が生じるからやるわけだ。

そこには達成感という快感がある。達成するというのは、ものすごくエクスタティックなものだから。

武道の極意というのは、ものすごく自発的なもので、自発的であるということがものすごく重要で、むしろ楽しいものだ。

インドでは私たちの宇宙は、神々の「リーラ」によって作られたと言いますが、リーラというのは「遊び」という意味なのです。

人間は自分が遊んでいるつもりになっているけれども、実は神々に遊ばれている。それを受けて、自分自身も(その大きな遊びの中に)遊ばれた方がいいのです。だからこそ最初に言った、最後に勝つ「勝負師」なのですよ。
リベンジというのは98%成功しないと言うけれど、俺の場合はそれを覆して生き返ったという感じがある。そういう状況にこそ、見ている人を感動させる何かがある。
神が見ていて「こいつは面白いぞ」という人間を、神がプレイヤーとして遊んでいる。

そうそう、それを見ている自分もいるし、意識はプレイヤーとつながっている。この宇宙が生んだ子供である、という意識があるからです。

俺は神々を超えなければ、地震を止めることはできないと思った。神を超えるには肉体も強靭なものにしなければ、俺がこれから考えている「遊び」というものは実現しないと思った。その遊びのために全脳細胞を開こうと思ったわけだ。また、それは開きつつあると思う。

人間ってね、強いようで案外弱いから、肉体をしっかり保つということがとても重要。

どんな強い人間でも病気をすれば弱気になる。でも、どんな大変なことでも肉体にエネルギーがみなぎっていれば「よし、やるぞ」という気になる。

肉体を鍛錬することを無視して瞑想だけしてもダメ。ただ座っているだけの瞑想もダメ。肉体を最良の状態にしつつ、瞑想の確かなテクニックを一つずつ身につけていくのが正しい瞑想であり、極意ということになる。

 - 能力

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