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『体で考える――不安な時代を乗り切る知恵』内田樹、成瀬雅春 著

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多田先生はオープンハーテッド。合気道という武道の特殊性なのかもしれない。

合気道は植芝盛平先生が創始されたわけだけれど、成立過程でいろんなものを取り込んだ。
柳生流の体術、大東流合気柔術、剣術、槍術、杖術、真言密教も入っているし、大本教の出口王仁三郎先生の教理も入っている。いろいろなものを寛容に取り入れてやりながら、練り込み、作り込んでいくという感じ合気道の「鳥船(天の鳥船)」、あるいは「船漕ぎ運動」と呼ばれる呼吸法も、割と近年に合気道に入ってきたものです。

川面凡児という方の古神道の禊(みそぎ)の呼吸法を、植芝先生が「これは良いものだ」ということで取り入れたらしいです。多田先生も植芝先生に入門されると同時に、中村天風の天風会にも入門しているし、小倉鉄樹先生(山岡鉄舟の晩年の高弟であり、禅僧、禊と禅による修養団体「一九会道場」の実質的な創始者)が創始された一九会にも入門されている。
早稲田大学では空手部におられた。船越義珍先生にも師事されていた。

マイナス思考の人は生きようとする力が弱い。強い生命エネルギーを蓄えることができれば、人生はバラ色に切り開かれていく。

ヨガをするにしても、マイナス思考の人は「うまくできなかったらどうしよう」と不安から入ってしまう。やる前からそうだ。
「合気道がいいよ」と勧めても、「合気道をして怪我をしたらどうしよう」とか「合気道しても健康にならなかったらどうしよう」ということばっかり考える。

そんな人は今を生きているとはとても言えない。先のことばかり心配しているけれど、そんなことに意味はない。

後悔と取り越し苦労は絶対にしてはいけない、というのは武道の基本。

戦場に出て四方八方から弾が飛んでくるときに、「こんなところに来るんじゃなかった」と悔やんだり、「このあと撃たれて死ぬに違いない」と取り越し苦労をしたりしても、それによって生き延びる可能性は少しも増えない。

今ここにいるということが所与の条件なのだから、そこから始めるしかない。

ビュンビュン弾が飛んでいる以上は、もう「こんなところに来なきゃよかった」といくら思ってもしょうがない。もう来ちゃったんだから、ここを出発点にして「さて、この後どうやって生き延びようか」を考える。危機的な時こそ、取り越し苦労を自制して、無理やりにでも物事を楽観的に見ることが大切です。

椎名誠 集英社文庫 インドでわしも考えた

他にできた人がいると知った瞬間、人間は自分の限界を軽々と超えてしまう。

常識は持っているけれど、常識的な枠組みは持っていない

100歳で陸上の短距離 宮崎秀吉

じゃ、どのルートで行ったら一番効率いいか。

スイッチが押される感じ。スイッチを切り替える能力。そういうスイッチをパッと入れるのが、結構ゲームみたいで楽しいです。

武道の場合は、いきなり始めるというのが基本。

本当は準備体操をしてはいけない。準備体操もすでにヨーガ。スタートからヨーガ。足首を回すのもヨーガ。道場に入った瞬間に、パンとスイッチが入って武道モードに切り替わる。

そうした境界線の感覚は、とても大切だ。結界というのは、身体と一緒に動く。ここに結界があるという感覚がなくなると、稽古にならない。

武道家は、まず自分の結界を作る。

結界に入ってきたものについては、活殺自在になる。「道着」も「結界の意識」を増幅させるための装置

舞い瞑想(踊りながらする瞑想)。

長い時は30分。
息つぎがずっと見えなかったから、見てるこちらが呼吸が難しかった。息が詰まる
形としては中国武道の拳の形にも似ている

山姥の話をブログに書いたら、笹本武さんから「それはルンゴムですよ」と言われた。

ルンゴムでは、実際に空中を歩くのではない。意識的にはそれに近い状態だが、地面をドタドタと歩くのではなく、地面と自分の足の間にクッションがある感じで歩く。

この感覚を掴むために、人が入れるくらい大きな樽を横に倒して、その中に入って歩く。足は常に地面から数センチ離れている。これを繰り返すことにより、足が雲の上に乗っているような歩行の感覚を掴める。

福岡伸一の本で、運動の精度というのは、実は自由の粒子の数で決まるらしい。

平方根の法則:
物体を構成する粒子数の平方根にあたる数の粒子だけは、他と違ってランダムに運動をする。それを見て、平方根の法則を武道の運動精度に置き換えて考えることはできないだろうかと僕は思った。

つまり、システムを構成していて自由に動く粒子の数が増えれば増えるほど、このシステム内でデタラメな動きをする粒子のパーセンテージは減る。だから、運動の精度は上がる。どんな身体操作でも、精度の高い動きをしようと思ったら「リラックスしろ」という。

2人でする運動の場合、受けの人をリラックスさせて、自由粒子のパーセンテージを上げて、この2人が一体的に動けば分子数が2倍の体(からだ)として動く。

そうなるなら、理論的には運動を2倍にまで増やせる。だから、1人でするよりも2人でした方がいい。

強弱勝敗で言えば、相手はできるだけ弱い方がいいということになる。

でも、弱い相手というのはガチガチにこわばって、恐怖や焦燥で居着いてしまい、身動きができなくなっている人間だ。だから勝敗を競うと、どうやって相手を居着かせるか、どうやって相手をリラックスさせないか、という方向に工夫が向かってしまう。

すると、先ほどの話とは逆になってしまう。つまり「強弱」や「調整」にこだわればこだわるほど、運動精度は下がるんじゃないかと思う。

歴史の中で、たまたまそういう役割を与えられたのかなと思っている。リレーするというか、パスするというか、そういう流れの中にいる。

流れを輪切りにして、同時代・同世代の集団内部で「誰が強いか」「誰が上手いか」ということを相対的に比較することは、ほとんど意味がないと思う。何を継承し、何を伝えていくかということこそが大事だ。

比較の対象は自分しかない。

昨日の自分に比べて、今日の自分がどのくらい変わったか。これだけを考えていればいい。他の人と比べて上手いとか強いとかは、ほとんど意味がない。競争ということが、まさに上達の妨げになっている。

合気道では、体の内側を見る。

自分の中をスキャンする、あるいはモニターする。

外からの入力を遮断して、内側を見る。
もし痛みやこわばりがあったら、そこに気(生命エネルギーの一種)を集める。気が集まるとそこだけ少し温かくなる。

稽古はまず全身のスキャニングから始まる。

察知能力の高い人は、嫌なことに対する察知力が早い。不快に対する察知力が優れている。

このままの状態にいると嫌なことが起こりそう、起こりそうだということを、実際に起こる前に予知できる。歩くコースを無意識に変える。

格闘家が成瀬先生に技を決められないのも、かける人の技の起こりを「嫌な感じ」として察知するからではないだろうか。

技が始まる前に、もう技がかかるコースにいないように、無意識に体を使っているんじゃないだろうか。

何度も同じ練習動作をする中で、違うルートを探してやった人との違いがすごく出てくる。

仮説を立てて、その仮説で動いたときに何が起こるのかをチェックする。全く同じことをしているつもりでも、少しずつどこか違う。それをどれくらい見つけられるかということ。

動きが冴えるというのは、速い、強い、ではない。合理的とか無駄がないということでもない。

問答無用で上から下まで一刀両断にするような、決然としたもの。

刀筋分しかない隙間に一気に切り込んでいく。それ以外のコースはありえないというコースに、全力でためらわずスパッと切り込んでいく。切れ味のいい、かつ爆発的な繊細さという、どこか矛盾したもの

神戸女学院大学は山の上にあって、秘密の花園のような閉じられた空間、つまり低刺激環境です。

不快な視覚刺激も聴覚刺激も入り込んでこない、そういう空間に4年間いると、身体感覚が変化します。

学内寮がありますが、寮生たちは緑に包まれた静かな空間に4年間いることで、通学生とは佇まいからして明らかに違ってきます。

なんだか毛穴が開いた感じになり、皮膚が多孔質になって外気との出入りが自由になり、春満開の頃には桜と溶け合っているような感覚になります。
「吉野の天人じゃないけれど、霞に紛れて、しなり、セミの抜け殻のようになって、ほとんど下界と一体化している」
というような皮膚感覚です。

そうやって皮膚感覚が解放された子たちは、何か冗談を言いかけただけでも、もう笑ってしまいます。話が早い。

低刺激環境に人間を長く置いておくと、センサーが敏感になる。

逆に都会で生活していると、センサーが良いと不快なことの方がかえって多かったりする。目障りなもの、耳障りなものに溢れているから、うっかり感度を良くしていると、不快な刺激をまともに受けてしまうリスクを冒すことになる。

だから、都会生活者は防衛的になる。感覚を閉じてしまう。サングラスをかけて、ヘッドホンをつけて、硬い殻で体を固くして、厳しい状況で外を歩いている。コミュニケーションの感度も下がってくる

大学ではアカハラやセクハラが問題になっている。

ハラスメントとは、他人の言動を自分に対する不愉快なメッセージと受け止めるから事件化する
「先に気分が悪くなった者」の勝ち。

今、この人の言ったことを最悪レベルで解釈をするとどういうことになるのか。

「あなたは本当は何が言いたいのか」と問うことよりも、「このメッセージはどこまで悪く解釈できるか」ということが優先されてしまう。

ビールがうまいなぁ、生きててよかったぁというのも、その瞬間を誰よりも楽しんでいる

一歩外に出たら死ぬかもしれない。だからこそ、今を楽しめなければ損だと思っている。日々これの連続であり、必死の覚悟だ。

普通の人は、一歩外に出たら死ぬかもしれないとは言わない。自分の平均寿命くらいまでは生きるだろうと思っている。しかし、そんなことには何の根拠もない。それは生き方が甘い。

そういう人の方が、実は結構危ない。一歩表に出たら車に跳ねられて死ぬかもしれないと思っている人のほうが、事故に遭う可能性が低い。

そういうことは我が身には起きないと根拠なく信じている人のほうが、備えが甘い。

修行中に滑落して死んでしまったら、それはそれでそういう運命だろうし、そういう役割なのだろうと思う。

死なないで帰ってきたということは、日本に戻ってまだ色々と果たすべき役割が残っているということだ。危険な場所での修行も、ディズニーランドで楽しむのも、自分の中では一緒だと思っている。

自分の人生の中で、危険な場所で危険な目に遭う。そういう経験はいっぱいあるけれど、「死にそうになる」のと「死ぬ」のは全くの別物だ。

そこで死んだらそれも人生の役割だなと思う。別にそれはそれで正しいと思う。

それでも自分がまだ生かされているということは、まだやることがたくさん存在しているんだなと思う。だからどんなことがあっても、ヒマラに行くことをやめようとは思わない。修行には、そういう人に自慢するネタを探しにいくみたいなもの。

危険な場所を選ぶのは、絶対安全が保障された場所で修行しても意味がないから。

いつ死ぬかわからないような危険な場所で修行すれば、そこでしか到達できない境地がある。武術で言えば、野試合や合戦と同じかもしれない。道路のような綺麗な地面で戦うのとは違う。弾力は生き抜く覚悟、死ぬ覚悟というものに直結している。

どんな状況であっても、ここを生き抜くという弾力は、技術的なものよりずっと大切だ。

多田宏先生もよく「胆力」という言葉を使う。同じ意味で、「断定する」ということも。

何かをしている時には、私が今ここにいることは宇宙が始まって以来、宿命づけられていた必然の出来事であると断定しなければいけない。

断定できなくて、「俺はここでこんなことをしていていいのだろうか」という風に気持ちが揺れると、集中が途切れてしまう。

胆力というのは、別に「負けないぞ」と力むことじゃない。断定することなのだ。ここに自分がいることには深い必然性がある、ということを断定しているわけです。

対談が終わった後、すぐに車に轢かれて死ぬかもしれない。だから今を懸命に生きる。

僕には死ぬ覚悟はあるけれど、それは現世に対する執着があるかないかによる。パッと自殺するのは、正直に言えば誰にでもできることだ。別に死ぬ覚悟があって死ぬわけではない。現世に対する執着があるから自殺するんじゃないだろうか。

煩悩をなくすのではなく、煩悩に対する執着から離れること。

「なくす」と「離れる」は、全く意味が違う。あってもいいよ、なくてもいいよという状態になること。

僕は常に命がけと言っている。

命がけというと難しそうに思われるけれど、簡単に言えば今を楽しむ、常に楽しむということ。

常に命がけで生きていれば、常に面白いことを探せる。

信仰というのは本当に脆いように思う。最終的に頼れるのは自分自身しかいない。

→超越的なものに委ねるということはしないのだろうか

次世代にパスを送る。

誰かからパスを受け取る。その贈り物のおかげで、今、僕たちはここでこうしていられるわけだから、次の誰かにパスしなければいけない。

自分のところに留めておいたらダメだ。ワンタッチで次にパスを出す。

死にたくないという執着から解き放たれる、離れること。それは諦めるのとは全く違う。

それを求めて、僕は修行しているんだと思う。

つらい状況というのは、自分自身の心身の能力が高くないと乗り切れない。だから、きつければきついほど「上機嫌」になるようにする。

不機嫌だと、センサーの感度も落ちるし、身体能力も低下する。

だから、きつい状況ではとりあえず機嫌を良くする。
笑いながらでもないと、とてもじゃないけど乗り切れない状況ってある。

多田博司先生から、武士は用事のないところには出かけないと教わった。

だから僕は、用事がない限り家は出ない。関西に在住して21年だが、金閣寺にも銀閣寺にも行ったことがない

池上六朗先生から聞いた話。3月11日の朝、体がカチカチにこわばっていた人が何人も診療を受けに来た。

「カチカチにこわばっている。今日は何か起きるな」と思って、心の備えをした人もいるんじゃないか。

普段から三脈を取る習慣がある人なら、あの日はだいぶ三脈がずれていたんじゃないかな。そしたら「今日は何かが起こる。とりあえず外出を控えよう」と思ったはず。

『朝日ジャーナル』の中で、ジャーナリストの辺見庸さんが大震災を予言している。発売は震災後の3月15日だったが、原稿の締め切りは1月末。

9.11でも、そのビルのオフィスに勤めていた人が、急に外に出たいという気分になって、用もないのにエレベーターで1階まで降りて、スターバックスかどこかに行ってコーヒーを飲もうとして振り返ったら、飛行機がビルに突っ込んでいた。

頭が先行する人と、感性や体が先行する人との違い。

頭が先行していると、「周りがしているから自分もしよう」と周囲に合わせることに執着してしまう。烏合の衆となってしまう。

宗教や武道、ヨガも本質的には有事対応モデルなんだと思う。

それが共同体を生き延びさせる機能になっていた。有事対応モデルというのは、どうしていいか分からないときに、どうしていいか分かるということ。

生物である以上、自分の生存に関わる危険に対しては、程度の差こそあれ、ざわざわ感を覚えるはずです。計測機器がデータとして読み取る閾値にまで達していないから、数値的形式的には表示されない。でも、感じる。

まさにその通り。ヨーガや武道とは、そのざわざわ感を感じ取るためにあると言っていいでしょう。

一人一人が持っている体とは、かけがえのない唯一無二のものであり、それぞれ独特の発達の仕方がある。

どういうきっかけで能力が開花するかは人それぞれ異なるため、教える側もどうすればいいのかよくわからない。だからこそ、やれることは何でもやる。

ある人はあるきっかけで才能が開花し、別の人は違うところで開花する。一人一人に独特の成長リズムがあり、固有の速度があり、固有の時間が流れている。

だから、期間を定めて「いついつまでにこれができるようになりなさい」という風に枠にはめるのはつまらない。時間を気にせずに、できるようになるまで待つということでいいと思う。そもそも、何ができるようになるかさえ分からないのだから。
僕ができないことができる人もいるし、何をしているのか僕にもわからない人もいる。その場合は、僕はそこから学ぶということでいいと思う。

そういう相互性は、相手を大人として見ないと成立しない。

頭が固い人は、自分の体はこういう形なんだ、肘の関節はこう動くんだという思い込みがある。

思い込みがあると、それ以外の使い方は思いつかない。
頭が柔らかい人は、そういう思い込みのスキームを作らない。

だから、自分がどう動いているのか頭では描けないけれど、体はちゃんと動いているということが起きる。

固まるのと動かないというのは別物。

地震が起きたとき、体も頭も固まるのは良くない。あと慌ててどっかに行くのも良くない。まずは動かず、状況を判断する。状況を見てから動く。そうすると、最もいい選択ができると思う。

パニックになると状況判断ができない。だから、普段から瞑想、呼吸法をしたりして、自分を落ち着かせるテクニックを身につけておくといい。

良い軍隊は昔の海賊に似ている。

海賊たちは非常に陽気だが、襲われる方は恐怖で体が固まってしまうから、簡単にやられてしまう。

だから海賊映画では、海賊がまるでバカみたいにお気楽に描かれているけれど、僕はあれが正しいと思う。

経験則だけれども、ゲリラと正規軍が戦った場合にはゲリラが勝つ。

戦争史を見ても、だいたいそうだ。海賊的な陽気さや、現場の自己判断で動けるということがあるのだろう。指揮官からの命令がないと動けないのと、自分で勝手に動けるのとでは、身体能力に圧倒的な差がでる

人間だって生物である以上、基本は結構プリミティブだ。

分子レベルでは快を求めて不快を避けるということをしており、その点ではアメーバと違うわけじゃない。

だから生命の危険が切迫すればアラームが鳴るし、生きる知恵と力を増大させるファクターが近づけば、気分が良くなる。細胞レベルではそういう反応が起きているはずだ。

アラームが稼働する以前のもっと微細なノイズが感知された段階でも、無意識的には快を求め不快を避けているはず。
例えば、どちらの足から前に踏み出すか、右に曲がるのか左に曲がるのかといった、どうでもいいような選択のときでも、僕たちはより生命力を高めるものを選んでいる。

体のアラームの感度を高めるためには、面白いことを見つけることが重要。

何か面白いことはないかなと思って、どんどん面白いことを見つけるようにした方がいい。すると、少しでも危険から遠ざかった方が、今後ももっと面白いことが体験できるなと感じられるようになる。体が自然と危険から遠ざかっていく。

生まれてから死ぬまで、結局は自分の判断しかない。

誰かに命令されて動くよりも、自分が決めて、自分が動きたいし、動くしかない。

20キロ以内だから危険という情報は、20キロなんていう数値自体、十進法でキリがいいからというだけの理由で選ばれていたりする。

だから、先ほど言ったザわザわ感がなくなるような方向に、ザーザー感がなくなる距離だけ移動するしかない。

仕事があるからとか、保証金が出るからとかいう「会計的な情報」を取り込んだ後に頭で判断しようとすると、微妙な感覚入力は遮断されてしまう。

僕たちはつい外側から入ってくる情報をどう処理するかばかり考えがちだけれど、本当に重要な情報は自分の体の内側から届く。人間の生物としての本能も、少し見せてあげないといけない。

外部の情報にしても、それを鵜呑みにしないことが重要。まずは「どうなのかな」と一旦距離を置く。

そうすれば、「ここにこういう情報があるけど、いや、こっちの情報の方が正確そうだな」ということを、体が自然に教えてくれる。そういう能力は、やはり瞑想能力と言っていい。瞑想能力というのは、自分の気持ちを落ち着けて冷静になり、いろいろな状況が見えるということ。

パニックになってしまうのは、一つのことしか見えないから、それがすべてだと思い込んでしまうからパニックになる。

今野敏という作家、警察小説で知られた人気作家だが、有名な空手家。

体で考えるようになるためには、まずは自分の体を大切に扱うこと。

自分の体を粗末に扱う人は心にもほころびが生じ、豊かな人生を送れない。

私は、肉体は神様からの借り物だと思っている。神様という言葉に抵抗があれば、宇宙や大自然などに置き換えてもらえればいい。死んだら魂は肉体から離れるが、肉体は神様に返さなければならないと思っている。

肉体が借り物であるのならば、それを大切に使い、なるべく痛みや汚れのない状態で神様に返したい。借り物を粗末に扱うのは非常識な行為だ。

そうした考えのもと、自分の体のメンテナンスを怠らないようにしている。肉体を大切に扱えば扱うほど、心の柔軟さが増してくる。心身が柔軟になると、人生の楽しみが倍増していく。

人生の時間を楽しまないのはもったいないし、肉体を貸してくれた神様にも申し訳ない。

借り物の肉体をフルに活用して、限られた時間を目いっぱい使って、人生を謳歌すべきものです。

 - 哲学

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